すずつきのLOGBOOK

書きたいときに更新するよ

夏季休業32日_「カタカナ語、わかりにくくね?漢字、わかりやすくね?」を調べる。総集編

 

こんばんわ、すずつきです。

今日は以前のカタカナと漢字についての話題の総集編をしていきたいと思います。

まとめて読みたいモノズキはこれを見ろってことです。

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話したいことはカタカナと漢字についてです。

 

明治期に於いて、様々な外国語の単語が日本語の漢字に置き換えられたといわれています。私が学んでる"Architecture"も「建築」という名に変えられて、今日に至ってます。しかし、現在ではよくわからないカタカナの文字が出てきますよね。

 

「あの人、なんか横文字ばっかり喋っててうざーい」なんて言われる人もいると聞きます。ハイソサエティでエリートのインテリよく使ってそうな横文字言葉です(超偏見)

という私も上記のようなカタカナ言葉をたまに使うわけで.....

そこのところについて明日(何度もしつこいけど今日)考えることができればいいなと思います。

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こんな時間になってしまいましてね、申し訳ありません。

直ぐ就寝したいので手短に、昨日言った「カタカナ」と「漢字」の違いについてさわりだけ書いていこうと思います。

 

コンテクストとかメタフォリカルとか、急に言われてあなたはわかりますか?

私はこの言葉を初めて聞いた時、あまり意味は分かりませんでした。

それと同時に文脈や隠喩と言われたときに何を示しているかと聞かれたら、これまた言語化は難しいですが、私個人としては理解できます。

 

コンテクスト【context】背景 文脈

メタフォリカル【metaphorical】隠喩的であるさま

 

ということらしいです。

知っているか知らないか以前に、私はなぜ漢字の方が分かり易かったのでしょうか。それは、表音文字表意文字が関係していると思います。

表意文字の方が意味を知らなくても推測できるからです。

 

と...ここまで書いていて思ったのですがよくよくスペルを見てみるとcontextはconとtextに、metaphoricalはmetaとphoricalに分けられそうです。

たぶんそれぞれに文字の意味を推測させる言葉があるのでしょう。(textは文だし)

 

え...どうしよ...となったところで、今日はこれぐらいにして....

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昨日考えようとしていたことはカタカナ語と漢字、どちらの方が意味を知らなくても伝わるの?ということでした。やはりこれから数回かけて、特に種本もなく、情報の海の中のものを少しづつ齧りながら、考えていきたいと思います。

 

超絶不真面目な態度ですね。

 

昨日は、"context"と"metaphorical"で推測してみて、あれ?意外と察することできるんじゃないかと思ったところで終わってます。

 

どうやら英語には接頭辞なるものがあるみたいですね。(生粋の英弱の私は初めて知りました)「生まれる」"born"に「繰り返し、後ろ、反対」等の意味を持つreを付けたら「再生、生まれ変わる」"reborn"となるように"context"にも"con"という接頭辞があります。

 

con:ともに、一緒に

text:文、文字、書く

 

から「文脈」や「背景」という意味が生成されるらしいです。さらに、

 

meta:超、高次、~を含む

phorical:教区の、狭い、偏狭な

 

という要素から"metaphorical"という「隠喩的であるさま」になると....

contextはコンとテキストがわかれば文脈?みたいなものが想像できますが

メタとフォリカルは「超偏狭な」?「「狭い」を含む」?が「隠喩」という言葉を想像させるかというと.....それは難しいですね。

 

昨日は意外とわかりそうだと思っていましたが、やはり直接的なイメージや理解につながらないようですね。きっと前後の文脈からなんとなく意味を把握することはあるでしょうが、「メタフォリカル」からメタとフォリカルを知っていても日本語のイメージにはつながりにくいのだと思います。(もしかしたら例が悪かったのか....)

 

明日(今日定期)は漢字を読むとき、頭の中でどう咀嚼しているのかなというのを言語化して、何か発見があるといいですね。

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では、一昨日話したことの続きを書いていきましょう。前回はコンテクストやメタフォリカルを分解して意味がわかるんじゃないかと思いましたが、個人的にイメージとして全然日本語訳に結びつかないことがわかりました。

今回は「文脈」や「隠喩的」といった場合、私はどのようにイメージするかを書いていきたいと思います。

 

「文脈」とは文字通り、文の脈として想像できます。意味としては「文章の流れの中にある意味内容の続きぐあい。 」となり、脈という言葉に筋立って続くことという意味からもある通り納得ができると思います。仮に筋立って続くものがわからなくても血管という意味も持ち合わせていますから、イメージとして筋立つようなことは想像できるはずです。

このことからやはり「文脈」は文が筋立って「続いている」ということから文と脈を知っていればこの言葉の意味を想像できますね。

隠喩も同じく喩がわからなくても何かが隠れているんだなということがわかります。"meta"ではわからないですよね。

そして、「喩」という言葉は「例える」という意味を持ちますから隠れて例えてるんだなみたいなイメージができます。

 

2回に分けて表音文字表意文字としてこの二つの単語のイメージの仕方を探ってきましたが、やはり表意文字の方が伝わりやすいですね。

 

では、次から本題に入っていきましょう。

・そもそもこのテーマはカタカタ語、やたら使われるけど意味分かりにくいよね?

・漢字のほうがわかりやすいよね?

・しかし、なぜ近年はカタカナ語が使われるのだろうか?

という疑問から始まりました。

 

文脈の説明、伝わったか不安ですね。

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いきなり本題に入りたいと思いますが、昨日まで「カタカナと漢字を比べて漢字の方が分かりやすいよね」という確認をしてきましたので今日は、明治期の和訳について話してみたいと思います。所謂事実確認回ですね。

 

culture = 文化

society = 社会

science = 科学

space = 空間

architecture = 建築

environment = 環境

symbole = 象徴

park = 公園

century = 世紀

 

等々、あるように、近代社会を構成する漢字の単語はほとんど明治期に作られたということらしいです。私は現在、建築学科4年ということで建築"architecture"という言葉を頻繁に使っているし、「建築」という言葉に愛着を持っています。そして、これは明治期に生み出された新たな言葉ということを知った時かなり驚きました(5年ぐらい前)。

 

その前は「造家」と言われていたそうです。東京帝国大学工学部の前身である工部大学校に造家学科があったと言われています。卒業生には辰野金吾(1854-1919)など数多の有名な卒業生がいらっしゃいます。

その後、伊東忠太(1867-1954)によって訳語が導入され、建築となったとされているようです。

 

この時代、新しい訳語は発表されると、その造語がすぐに帝大の学科名まで変えてしまう力を持っていたんですね。確かに家を造る学科よりは包括的かもしれません。

次は、「建築」という言葉の意味を深堀して明治期の翻訳語がどう在ったのか。軽く調べて考えていきたいです。

 

いつか、こんなあやふやな知識ではなく、しっかりとした出典を明記していきたいです。このサイトを読まれているごくわずかなもの好きのあなた、事実確認をお忘れなきよう。

 

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今日もいきなり本題です。「建築」という言葉について考えていきたいと思います。

 

「『アーキテクチュ-ル』の語原は ギリシャに在り、正しくは大匠道と訳すべく、高等芸術と訳すも可なり。しかれども ギリシャ人は自らこの語を用いしことあらず、ローマ人 これをもって宮殿、寺院等を設計築造するの芸術に命名せしより、伝えて今日に至り、その本邦に伝来するや、あるいは これを訳して建築術といい 建築学といい、もしくは造家学というに至り、ついに これを攻究するの 造家学会を現出するに至りたり。」

 

『 伊東忠太建築文献 』第6巻、龍吟社1937を現代仮名遣いに変換して引用した

「文化の失敗ー伊東忠太の失敗ー」http://www.kamit.jp/16_essay/bunka.htm 閲覧日20230813

から引用

 

この言葉をもって、造家ではなく建築が適切と伊東忠太が主張したと言われているらしい。さらに、この論文が出現した明治27年にはすでに普及していた言葉で造語ではないということでした。

まあ、基本的な背景はこれぐらいにして、あえて、伊東忠太が主張した細論には踏み込まないでおこうと思います。

これら毎日の記述は事実の正確さを求めているのではなく、私が考えることを言語化する場ですから。

 

ということで造家と建築を比べた時、まず違うのはこれを分解したときの意味でしょう。

造家=造る+家

建築=建てる+築く

となるので造家は家という何を建てるかの目的を定めているのに対して、建築は2文字とも動詞になります。引用したサイトではarchitectureの建てる行為か建物そのものかみたいな検討をしていましたが、やはり建築という言葉からは動詞的意味の方が強いと思います。そして、建築学科も意味的には何かを「建てる」「築く」ことを学ぶ場ということになりますから、その何かの幅は非常に広いのだと思います。家を造ることより、非常に広い目的を持つことになりますから、汎用性の高い言葉になりますね。

 

なにか取り留めがなくなってしまいましたが、簡単に言えば造るの家だけじゃないだろって話で行為に特化した言葉として建築があてがわれたのかなと感じます。

 

つまり、言葉の範囲を調整し、わかりやすく最適化する意味で明治期の訳語は生まれたのかなと思いました。

 

明日は、そこから、現代におけるカタカナ語や漢字を調べていづれ比較できたらなと思います。

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昨日までは、明治期の訳語からどのような経緯で我々が想像しやすい、漢字の言葉となったのかを調査してきました。「造家」で例えれば、言葉の範囲を調整し、より"architecture"に近づいた漢字を当てはめた結果、「建築」という言葉になったという推測をしました。

今日は手短にして現代語に関するカタカナ語、漢字の訳語を探っていきたいと思います。

例えとして使っていきたいのは"landscape"日本語で訳すと景観ですが、ここでは建築の周りや都市計画、公園を含めた「ランドスケープ」を扱っていきたいと思います。

 

本来は景観=landscapeというように明治期に訳された言葉だったということで

landscapeには現在「景観」と「ランドスケープ」という2種類の言葉があると思います。ではなぜ、公園や都市計画、外構を意味する言葉に漢字を当てはめなかったのでしょうか。

それは次回扱っていきたいと思います。

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私は今回、カタカナ語と漢字の比較した時の伝わり方の違いのお話をしています。そこで「建築」という言葉に焦点を当て、「造家」や"architecture"をひっくるめてなぜこのような変化をしたのかを考え、"landscape"はなぜ「景観」と「ランドスケープ(デザイン)」があるのかについて頭を回そうと考えていました。

 

landscapeは景観と訳されるならば、ランドスケープデザインは景観デザインでしょう。しかし、国家資格であるRLAは「登録ランドスケープアーキテクト」という名前をしていて、役所の仕事であるにもかかわらず、そこに漢字を当てはめていません。

建築家をアーキテクトと称すなら霞が関命名される名前は「登録景観建築家」であるはずです。しかし、実際は違う。ということは日本において"landscape"を「ランドスケープ」と訳す時と「景観」と訳す時では意味が違ってくることになるのでしょうか。

であれば、なぜ、「ランドスケープ」に意味を持つ漢字に訳さなかったのか。

自明でしたが、そこが重要な点となってきました。

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昨日までの内容は「なぜ"landscape"という語が「景観」と「ランドスケープ」に分かれるのか」でした。景観といえば想像するのはどういったイメージでしょうか。私は様々な景色や遠景が想像できます。特に雄大な自然や山々、広大な海を想像します。そしてランドスケープは「ランドスケープデザイン」である通り、人工的な自然や景観というイメージが強いです。

最初にランドスケープアーキテクトを名乗ったオルムステッドもニューヨークという摩天楼の中にセントラルパークという巨大な自然空間を人工的に作り出したことから「ランドスケープ」には人工的な景観というイメージができるでしょう。

 

そこで私は、この訳し方には日本的な自然像が関係しているのではないかと思いました。

日本に於いて、自然とはコントロールしがたい存在で、様々な天変地異や山がちな地形も相まって、脅威の存在と認識していると私は感じます。欧州人が城壁の中で高密度になり生きている中で、目に見える天変地異が少ない中、望郷の田園景観を求めたとの対称的であると思います。

ランドスケープデザインがそういった望郷の田園空間から始まっているのならば、欧州的な自然観で形成された意味を持つ単語というのは日本語で直接的に訳すのは憚られます。

そういった経緯がこの言葉の訳し方に影響がでてくるのでしょうね。

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昨日は"landscape"の訳し方について日本の自然観が関わっているという仮説を立ててみました。

ではこの単語は「ランドスケープデザイン」という単語の場合どのような漢字の訳し方が当てはまるのでしょうか。前回この言葉は人工的に自然環境をデザインする言葉として扱いました。景観という言葉に対するイメージが人の操作に拠らない自然の景色なら景観とは別の言葉が当てはまるでしょう。

そして、「造園」という言葉のイメージも少し違うように感じます。園とは閉じている印象で、ランドスケープの基盤となったイギリス風景式庭園やフランス整形式庭園のようなイメージを与えます。産業革命以前の庭園は貴族のものであったため基本閉じられており、日本の庭園も浜離宮など閉じた世界が多いため、近代ランドスケープデザインとは違うイメージとなります。

従ってランドスケープデザインに相応しい単語は見当たらないのが現状です。

 

どのような単語がふさわしいのでしょうか....

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前回は、「造園」がランドスケープの和訳に適するかどうかを検討してみました。今日は軽く言葉の定義をしてみて検討してみましょう。

造家 → 建築

「家を造る」から「建てる築く」という意味に変わったように

造園 → 景築?景建?

景色を「築く」、「建てる」という意味にして上記のような造語を作ってみます。

単語の意味も一言一言選んで検証してみたいですね。

そろそろこの数回で結論を出したいです。

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前回の振り返りをしてみると"landscape"の訳語として、カタカナ語の「ランドスケープ」が当てられている中、「景築」や「景建」といった造語を勝手に作り、相応しいかどうか次回に検証するということにしました。

では、さっそく文字の検証をしていきましょう。

 

「景」

 

・ケイ

・キョウ(キヤウ)

・かげ

けしき。見渡される地上のありさま。

「景気・景色(けいしょく)(けしき)・景趣・景勝・風景・景・絶景・背景・近景・借景・情景・勝景・点景・殺風景」。また、演劇などにおける場面。「二幕五景」。ふぜいをそえるもの。

「景品」

 

「築」

 

・チク

・きずく つく

土をつきかためて、基礎をつくる。建造物をたてる。つく。きずく。

「築城・築港・築邸・築造・築七年・造築・構築・建築・新築・移築・修築・改築・増築」

 

 

「建」

 

・ケン

・コン

・たてる

・たつ

しっかり打ち立てる。設ける。

「建造・建設・建築・建国・創建・再建・封建・土建」

 

Oxford Languagesの定義からgoogle検索より引用

 

ここで改めて、言っておくとランドスケープは地形や景色を人為的に操作して創り出す事です。建築は一度地面を均してから平らな場所に新たに建てるものであるので、そこに違いが生まれると思います。

建と築どっちがふさわしいかと言えば、ランドスケープデザインは土木とも近いのでどちらかと言えば「きずく」という意味を持つ「景築」が近いのかなと思いました。

実は土木や建築の中間にも位置しているので、建築をモノではなく動詞と解釈すると「景建築」の方が近いかもしれませんね。

建築はその語の意味に「芸術」という意味も含めます。ランドスケープも当然、芸術を包括するので二文字に収めるよりもこの文字の方が適切そうです。

意味的にも「景色を築く、建てる」みたいななんだなとモノを知らなくてもイメージできそうです。

 

完全に建築やらランドスケープやらに話題を振っていましたが、今回の話の本筋はカタカナ語と漢字の伝わりやすさの違いでした。

ここまで意味を知り、新たな漢字の訳を作ってみました。ではここで、新たな疑問が生まれてきます。それは普及するかどうかです。

 

法律ではカタカナ語を使わないように表記するらしいですが、現代日本において、このような「景建築」という言葉が通用するでしょうか。明治期と比べ、カタカナ語は圧倒的に社会に浸透し、逆に漢字は國が国になったりと簡易化されている世の中であることは間違いありません。

言葉の認知度が上がり、使われるということは、知識階級だけでなく、より大衆に広がることを意味します。つまり、言葉の重厚さは認知度を上げるためには大衆にとって障壁となるのです。

 

従って、かなり遠回りしましたが、認知に必要な言葉のフレンドリーさが、現代日本では「カタカナ」という形態に憑依して、これまでの例で言えば「ランドスケープ」となっているのでしょう。

 

明日は軽くまとめてこれでこのシリーズは終了したいと思ってます。

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今月の話題は「カタカナ語わかりにくいのにそういう言葉たくさんあるよね。」という疑問から、

 

Ⅰ:表意文字表音文字のわかりやすさの解読

Ⅱ:例「コンテクスト」と「メタフォリカル」の英字や漢字としての理解

Ⅲ:やっぱり表意文字(漢字)の方が伝わりやすいよねという確認

Ⅳ:明治期の訳語 造家→建築になぜ変わったか

Ⅴ:造家、建築の意味の解読

Ⅵ:建築→わかりやすいよね ランドスケープの漢字ってないよね

Ⅶ:landscapeの「景観」と「ランドスケープ」という訳語への疑問

Ⅷ:カタカナの「ランドスケープ」が持つ意味の解明

Ⅸ:日本語の「造園」は訳語として適切か否か

Ⅹ:では造語を作ってみよう「景築、景建」という造語の仮設

Ⅺ:上記の造語の検討と「景建築」という提唱(直訳の景観建築は使わない)

  そして、それがふさわしいとしたらなぜ普及しなさそうなのか。

 

という系譜を辿り、今回に至りました。

そして、カタカナ語がわかりにくいのにそういう言葉がたくさん聞くようになったのは、言語に対するイメージが個人的見解ながら、漢字は重厚でカタカナは軽快なイメージを与えることが原因と感じ始めたのです。

そこで一つの矛盾が生まれます。それはわかりやすさと普及のしやすさは比例しないということです。新しい言葉に対するハードルは中身よりまず、親しみやすさが最初に来るのだと思います。

実際、所謂横文字というものを使いたがる人はいますが、漢字を積極的に使う人はいません。

レイヤーを画層という人は少ないでしょう。

 

結論として私は親しみやすさがカタカナ語わかりにくいのに使われる一番の要因と思いました。

 

そしてこれは書き言葉ベースで記述しているため、話し言葉についての視点も必要になると思います。書き言葉では文字の形状から意味を読み取れるので、漢字が適し、話し言葉ベースだといくらわかりやすい漢字を持っていてもそこに音は含まれないので、カタカナが適しているという見方もできると思います。

そもそもの私の疑問は、話し言葉ベースの疑問を書き言葉として仮説、検証していたのかもしれませんね。と、なれば、ふと思った疑問に対しての定義や、その認識の範囲の設定をしっかりとやる必要があるかもしれません。

 

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という流れのようです。要約もせずほぼ原文ママなので悪しからず、

このシリーズはやっていてとても面白いですね。

次は何にしようかな............とか考えてます。

それでは、

 

PS:ChatGPTに要約させてみたらどんなになるんだろう?