すずつきのLOGBOOK

書きたいときに更新するよ

夏季休業10日目_「カタカナ語、わかりにくくね?漢字、わかりやすくね?」を調べる。Ⅴ

こんばんわ、すずつきです。

 

さあ、いつもの時間にやってまいりました。

 

今日もいきなり本題です。「建築」という言葉について考えていきたいと思います。

 

「『アーキテクチュ-ル』の語原は ギリシャに在り、正しくは大匠道と訳すべく、高等芸術と訳すも可なり。しかれども ギリシャ人は自らこの語を用いしことあらず、ローマ人 これをもって宮殿、寺院等を設計築造するの芸術に命名せしより、伝えて今日に至り、その本邦に伝来するや、あるいは これを訳して建築術といい 建築学といい、もしくは造家学というに至り、ついに これを攻究するの 造家学会を現出するに至りたり。」

 

伊東忠太建築文献 』第6巻、龍吟社1937を現代仮名遣いに変換して引用した

「文化の失敗ー伊東忠太の失敗ー」http://www.kamit.jp/16_essay/bunka.htm 閲覧日20230813

から引用

 

この言葉をもって、造家ではなく建築が適切と伊東忠太が主張したと言われているらしい。さらに、この論文が出現した明治27年にはすでに普及していた言葉で造語ではないということでした。

まあ、基本的な背景はこれぐらいにして、あえて、伊東忠太が主張した細論には踏み込まないでおこうと思います。

これら毎日の記述は事実の正確さを求めているのではなく、私が考えることを言語化する場ですから。

 

ということで造家と建築を比べた時、まず違うのはこれを分解したときの意味でしょう。

造家=造る+家

建築=建てる+築く

となるので造家は家という何を建てるかの目的を定めているのに対して、建築は2文字とも動詞になります。引用したサイトではarchitectureの建てる行為か建物そのものかみたいな検討をしていましたが、やはり建築という言葉からは動詞的意味の方が強いと思います。そして、建築学科も意味的には何かを「建てる」「築く」ことを学ぶ場ということになりますから、その何かの幅は非常に広いのだと思います。家を造ることより、非常に広い目的を持つことになりますから、汎用性の高い言葉になりますね。

 

なにか取り留めがなくなってしまいましたが、簡単に言えば造るの家だけじゃないだろって話で行為に特化した言葉として建築があてがわれたのかなと感じます。

 

つまり、言葉の範囲を調整し、わかりやすく最適化する意味で明治期の訳語は生まれたのかなと思いました。

 

当たり前じゃん......と思う方もいるかもしれませんが、まだ今のところ、こんな感じの思考力なんです。お許しください!(チャージマン研風)

明日は、そこから、現代におけるカタカナ語や漢字を調べていづれ比較できたらなと思います。

 

それでは、

 

PS:お許しくださいを丁寧にするとご寛恕(かんじょ)らしいです。

今更知った言語弱者をご寛恕いただけたら幸いです。Orz